モータースポーツ

Night Trip

アプリリアは、1985年に初めてロリス・レジアーニを擁してロードレース世界選手権(WGP)GP250クラスに参戦を開始する。このときのマシンは、ロータックス製エンジンのマシンであった。
当時、WGPは日本メーカーの勢力が圧倒的で、アプリリアのこの試みは、実に挑戦的なものであった。
この年、ロリス・レジアーニは、ランキング6位と、アプリリア初挑戦の年としては驚くべき好成績をおさめた。
ロリス・レジアーニはさらに、2シーズン後の1987年、イタリア・ミサノ開催のサンマリノGPで、アプリリアの「AF1」を表彰台の中央へ導いた。
アプリリアはその後、GP125クラスにも参入し、ついに1992年、アレッサンドロ・グラミーニが同クラスにおいてチャンピオンを獲得する。
1994年には、GP125クラスで、日本人ライダー坂田和人を起用する。
日本人は日本製バイクに乗ることが常識としてとらえられていた時代で、坂田は日本人として初めてイタリア製マシンに乗ることとなる。
これは革新的な出来事であった。坂田は移籍1年目でタイトルを獲得、同年GP250クラスでもマックス・ビアッジ(当時のエントリー名は本名のマッシミリアーノ・ビアッジ)がタイトルを獲得し、アプリリア初の2冠を獲得する。
アプリリアはその後も、バレンティーノ・ロッシらを擁してチャンピオンを幾度も獲得し、小排気量カテゴリにおいて絶大な速さを発揮している。

アプリリアの沿革と戦略

アプリリアは、イタリアのヴェネツィア州ノアーレで、カバリエ・アルベルト・ベッジオが、第二次世界大戦直後にに自転車生産工場を設立したことから始まる。 1962年には合資会社にまで発展し、1968年に経営がカバリエ・アルベルト・ベッジオから息子のイバノ・バッジオに引き継がれる。イバノは経営を引き継ぐとすぐに、12人ほどのエンジニアの協力を得て、カリブリ(Colibri)とダニエラ(Daniela)という50ccモペットを制作した。これがアプリリア最初のオートバイである。 その後、1970年代にはモトクロッサーが生産され、1974年には本格的なモトクロッサーを制作した。アプリリアは、このモトクロッサーでレースに参戦する。続いて1975年には、ヒーロー社製のレース用エンジンを搭載したアプリリア初の本格的レーサーが発表された。 レースでの活躍は、アプリリアの名を海外にも知らしめ、輸出台数は生産の20%にも及ぶようになる。 アプリリアは1980年代には、トライアルやロードレースにも参入し、1990年代になると都市コミュニケータージャンルや、大排気量クラスにも進出する。 2002年には、モトグッチ社とラベルダ社を買収、その財政的負担に耐えるため、2006年、Piaggio & C.S.p.A.による買収に応じた。イバノ・ベッジオは名誉会長となり、会長にPiaggio社会長のロベルト・コラニーノ、社長にロッコ・サベッリが就任した。

アプリリアは、1980年代初頭のヨーロッパにおける、オートバイマーケットの危機に対して、イタリアのオートバイ市場は必ず復活するという信念のもと、ラインナップの拡充という戦略をとる。 それまで好調に販売していたモトクロッサーやモペットだけでなく、製品レンジを50ccから600ccまでの排気量で、エンデューロ、トライアル、オンロードバイクにまで拡大した。競合各社が規模を縮小するなか、アプリリアはプロジェクトの研究に明け暮れることとなる。 こうして、1983年に、アプリリア初のロードバイク、「ST125」が発売される。翌1984年には、STを改良した「STX」が発売される。「STX」は、「ST125」のスポーティーさを追求したバイクであった。この頃、アプリリア初のエンデューロマシン、「ET50」も発売される。オンロードとエンデューロカテゴリーは、順調なマーケットを築いていき、製品ラインナップの拡大戦略をとっていたアプリリアの先見性が証明されることとなった。 アプリリアはまた、デザイン面においても、当時としては革新的な試みをする。当時、バイクは赤とシルバーを基調とするカラーリングが一般的であったが、アプリリアはこれまでにない斬新なデザインやグラフィックスタイルのバイクをつくりあげる。 1980年代半ば、「ETX」は市販車として初めて同系統の濃淡色を重ねたカラーリングを採用した。また、このようなカラーリングは、その後「AF1」にも採用された。同じ車体でありながら、カラーリングを変えただけで、まったく別のバイクのように見えるこの手法は大好評を博した。その後ほとんどのメーカーがこの手法を後追いしたことは、アプリリアの開拓したカラーリングとデザインの方向性が正しかったことの証明であるといえる。